「ちょっとお父さん聞いてよ」リビングに入ってきた娘が、唐突に切り出す。この春に大学に入ってから、友達と遊んでばかりでほとんど顔も見なくなった娘から話しかけられると、ちょっとドギマギする。
「就活って困っちゃうのよね」独り言なのか?
「ちょっと聞いてるの、お父さん!」やはり話しかけてきていたようだ。
「もちろん聞いてるさ」あわてて答えた。「就活って、お前、まだ大学1年だろう?」
「1年だってうかうかしてられないのよ」向かいのソファに腰を下ろす。長くなりそうだ。
「しかし企業側にも協定があるわけで、さすがに1年生を面接したりしないんじゃないか?」
「それが外資系とか、そうでもないのよ。土足で入ってきて、日本の文化を踏みにじるのよね」うんざりといった体だが、言っていることの意味はよく分かっていないと思われる。「就活って言っても、OG訪問みたいな感じで、どんな会社か見学に行くだけだし」
「見学に行ってるだけで、何が困るんだ?」
「名刺よ、名刺」といって、鞄から名刺の束を取り出した。「どの会社に行っても、あった人全員がとりあえず名刺を渡してくるわけよ」
「なるほどな」ビジネスマンに共通の悩みでもある。
「で、これだけの枚数になると整理が大変なの」そう言って、鞄を開いてばらけた名刺を見せる。「もう捨てちゃおうかな」
「必要なのを残して捨てるのも手だが、念のため、データベース化した方がいいんじゃないか?」
「それよ、それ」身を乗り出してきた。「友達はExcelとか住所録とかに入力して保管しているらしいんだけど、そういう地道な作業って私っぽくないし」
「でも就職したらExcelなんて絶対に使いこなさなきゃならないんだぞ、どうせ」ちょっと親父モードに入る。「今からやっておいて損にはならんぞ」
「ならんぞって、お父さん、いつの人よ」娘に笑われた。「でも面倒だし」
「Windowsなら名刺をスキャンして自動でOCRする製品もいっぱいあるんだが、お前はMacユーザだもんな」しばし考える。「Macで名刺専用のポータブルスキャナ付きは、もう海外の製品しかないんじゃないかな」
「お金かかるのは嫌!」きっぱり否定された。「いつも金欠だもん」
「しかし携帯電話の使用料だって、ネールだって、洋服だって、靴だって」一息つく。「毎月結構使ってるだろ?」
「そうだけど、最近iPhoneにしたら、使用料が2倍くらいになったし」
「お前、iPhoneを使ってるのか」知らなかった。「確かに定額とは言え、目一杯使うと、ちょっと高いよな」
「本当、大学行っても、ネットサーフィンして見せびらかしちゃうから、すぐいっぱいになっちゃう」それはお前のせいだ。
「ちょっと待てよ」ふと思いついた。「iPhoneのカメラで名刺を撮影したらどうだ?」
「iPhoneのカメラって、マクロできないんだよ」
「分かってるって、お父さんだって、会社で支給されている携帯電話は今月からiPhoneだからな」
「名刺なんか撮影したら、ボケボケでしょ」
「ちょっと待ってろ」おもむろにビジネスバッグからiPhoneとクレジットカードサイズのフレネルレンズを取り出す。「このフレネルレンズはな、100円ショップで買ったんだ」
「何それ?」といって、レンズを手に取る。「カード型の虫眼鏡なんだ」
「あぁ、こいつをだな、iPhoneのレンズ部分に当てて撮影すると、マクロ撮影ができるんだ」
「えぇ!」人が心底驚いた顔をテレビ以外で見るのは久しぶりだ。
「実はな、会社の会議でメモ書きしたものをあとでまとめたりするのが面倒で、とりあえずiPhoneで撮影して保管するようにしたんだ」
「へぇ」興味津々らしく、さっそく自分のiPhoneで名刺の1枚を撮影してみる。「ちょっと手ぶれしたけど、確かに読めるくらいには撮れるみたい」
「あぁ、慣れれば問題ないぞ」
「画像にすれば、場所は取らないけど、保管しているだけじゃ整理したことにならないじゃん」
「そこなんだよな」と言って、娘の名刺の1枚を撮影してみる。「やったことはないんだが、こうして撮影した画像をアドレス帳の項目に関連づけられるんだよ」カメラロールから名刺の画像を選び、連絡先に設定を選んで、アドレス帳内の項目の一つを指定する。連絡先を開いてその項目をみると、名刺の画像がアイコンとして表示されている。
「小さすぎて、全然読めないよ」アイコンをみた娘がiPhoneを突き返す。
「いやいや、いいか」iPhoneの画面を娘に見せる。「この項目を選んだ状態で、編集をクリックする。アイコンをクリックする。すると写真を編集、というメニューが出る。で、選ぶと」iPhoneを渡して、写真を編集を選ばせる。
「あら、拡大表示できる」
「なっ」こっちもこんな風に使えることは、今初めて知ってが、周知の事実のようなそぶりだ。「この方法を使えば、iPhoneの連絡先に名前と会社名だけの新しい項目を作って、名刺を撮影して関連づけることで、あとで名前から連絡先を調べることができるようになるわけさ」
「これなら、できそう」娘はまだ半信半疑だが、興味は津々だ。「あっ、だけどレンズを買わなくちゃいけないんでしょ」
「言ったろう。100円だよ。カード型のレンズで、2倍か2.5倍くらいのを探せばいいんだ」
「ありがとう、試してみる」
娘にお礼を言われるのは、本当に気分がいいものだ。それも最近はほとんどないことだから、うれしさも一塩と言うのが、逆にちょっと寂しくもあるか。
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